昭和42年10月23日 朝の御理解
入力者=末永静行
信心が進むとか、信心が育つとかということがいわれますけれども、信心が進むとか、信心が育つと言う事はどういうようなことであろうか。
厚い夏が過ぎると涼しくなる、涼しく、涼しくなる、涼しゅうなった、涼しゅうなったというておるうちに寒うなって、勿論そのの中には、厚い、そして、涼しいというておっても、また夏はぶりかえしたように厚うなるような事もございますけれども、とにかく、厚い、そして涼しい、それから寒い、そして、また春の暖かいさと言うたようなものが四季の厚さ、寒さといったようなものがずうっとまわってまいります。
いわゆる、信心も、やはりそうであります。それはいかにも、こう、ぐるぐる、こう、回っておるようにありますけれども、それ、厚さ、寒さというようなものを繰り返していくうちにです、信心が段々育っていくのである。それは子供から大人に、そして年寄りになっていくように、でなかなければならんのだけれども、本当にそれが、こう、回っておるけれども、育たないです、ただ、いつまでも信心が子供であったんでは、やはり、おかげの方も育たないわけでございますから、同じ一年生と言うても、小学校の一年生から中学校の一年生、ね、高校の一年生というように、同じ一年生であっても、そういうふうに内容と言うものは変わっていかなければならない。
( ? )の一年生の時に感じた神様、中学校の一年で感じる神様、高校に入って分からせていただく所の神様と言うのは自ずとそこから変わってくるわけなんです。いやば、久留米の佐田さん達が親子三人、菊栄会の、神愛菊栄会に最近入っておれますが、その恭造さんと奥さんの恵美子さんとお母さんと三人で、ちょうど私が佐田家との間に( ? )、それで、その、まあ、お疲れの所すみませんけれども、まあ、2時間あまりに、えらい時間を頂きたいというのである、親子で、いよいよ信心を進めていく、そして、分からない所がいろいろある、そこん所を解明して頂きたい、まあ、説明して頂きたい、そして本当の神様を、いわゆる、頂きたいとこう言うのである。
これは、まあ、それから、下がりましてから、本当に2時間余り、まあびっちり、それぞれの話を聞き、また、それぞれの話に対して、また私の知っておる限り、これが私の、もう、現在は、もう最高という所までお話をさせていただいたのでございますけれども、やはり、信心が育つと言う事はね、その、分からない所が分かっていくと言う、いわゆる、そういう意欲がなかなければ育たないと思います、ね。
昨日は、荒神、いわゆる、( ? )、大きく、その、色々な神様やら、いわゆる、大神宮様とかね、荒神様といったような神様がにぎにぎお祭りをしてある、段々信心が分からせてもらって来るとです、ね、生神金光大神のお取次を頂いて天地の親神様のおかげを頂かせていただくことが段々有り難くならせて頂き、分かってまいりましたら、どげん考えても荒神様を拝むようになくなってきた、いわゆる、大神宮様を拝まなくようになってきた、いわゆる、( ? )なってきた。
いわゆる、寒いおじいちゃんにむこうてその話をさせて頂いたら、まあ、あんたの話を聞きゃそれがもっともな話( ? )、半年ばかり( ? )何ヶ月余り、まあ、待ってくれとおじいちゃんが言われると、まあ、その間に自分の心が整理するわけなんですね、( ? )子供の時から言われてきた、その、大神宮様とか荒神宮様というのですから、やっぱりそこにちょっと終着を感じられたんですね、おばあちゃんと恭造さん達夫婦は信心が分かれば分かるほど、そういうことは天地の親神様御一体に( ? )させて頂くのであるから、そんなものは必要ない事が段々本当に分かってきた、ね、それで、( ? )大きな、その、お社やらなんかをもって、ここに、やはり納めたいとこう言うのである、でそこの私が( ? )させて頂こうと云うて、まあ、( ? )けれども、これは信心が育っていけば、そうしなければおられんのです。金光様のご信心をさせて頂いて、本当に分かっていくとですね、そうしなければおられないのです。おかしい、不自然になってくる、荒神様が祭ってある、大神宮様が祭ってある、もう、実に不自然なんです、というて、その、神様やら仏様を侮るとか、軽蔑すると言うのじゃなくてです、天地の親神様の中に( ? )、中に一つになって頂く、これは信心が育っていかなければ分からんです。
段々仏教の長年の先祖年代の宗教といいや、まあ、仏教ですね、その仏教的にも、やはり、さかのぼってまいりますと元は神道一つであった、御神道である、以前古来からの宗教である、それがしなから朝鮮に於いて、( ? )、それで朝鮮に於いて仏教が皆さんに渡ってきた、そして、仏教になったというだけであってですね、( ? )先祖年代とかなんとかいうて、やはり、( ? )新興宗教に、もう、なら、人達が傾いたというだけに過ぎないのである。
そして、本当のご信心を分からせてもらう、本当の私共の魂の在り方と言うことがです、ね、また、魂を育代と言ったような事がです、信心が育つに連れて分かってくればくるほどに改式しなければおられないのです。普通の改式しちゃ信心が分かっちゃると云う事じゃないです、ね、そうじゃないです、本当はそこんところが、そう、そう分からせてもろうのが改式でなかなきゃいかん。
これは信心が分かってくると、やはり、そうしなければおられんのである、自分がおかげを頂くために改式をした、( ? )改式をしたと、こんなのはたくさんあります。ね、とても、椛目では、まあ、改式といったようなことでも、なかなか、( ? )許されません、ね、本人がそこで信心が育って分からなければです、改式を私は今までしてこなかった、いくらも申し込みがありました、改式をして頂きたい、けれども、何か一つたつ、一つたつというか、しばらく信心させてもらいよったらおかげを頂いた、はぁーこれは有り難い、それで自分は助かっとるから先代も助かってもらいたい、ただそれだけでです、例えば、この改式をして欲しい、そして、今度はおかげを落とすと、ね、金光様のご信心までまいらんごつなってしまってから、改式された御霊さまはどうなる。ね、一時的にはただ( ? )ではいけないからなのです。ね。
お互いの信心が育ってまいりまして、そういうことになって行かなければならない。皆さんの信心もここに厚さを通り、寒さも通り、ね、( ? )というふうに繰り返しておってるんだけれども、果たして通って行く内にそういう育つと言うことがなされておるか、信心が何十年の信心をしておるけれども、果たしてどれほどの所に信心が向上しておるか。
これは、佐田さんのおばあちゃんの質問でございましたが、だいたい親先生、神様は実在ますますもんでしょうかとこういうことであった。実は先日から、あの、恭造さんの弟の啓造(けいぞう?)さん10から違うそうですから、あの、年はだいぶん違うのですけれども、非常に、まあ、頭のいいように見込まれて、医者になっておられる、この頃から博士を頂きました、そして見込まれて合楽の上院のお嬢さんもらって結婚いたしました。そして、今度2年間アメリカへ留学する事になりました。本当に素直な方です、それで、もう、一日そのおばあちゃんを通して、その( ? )でございます。
ちょうど、御大祭の前の日でしたか、その、恭造さん達夫婦、それから佐田さん達が( ? )三人、全部で( ? )言われました( ? )けれども、ちょっと10分時間をさいて、いわば、お相手をしました。貴方は今度、2年間もまいるそうでございますから、何でも親先生のお言葉を一言いただいて行きたいと本人が申しますからというのである。そこで、私はある事を、恭造さん達夫婦に、餞に御理解を頂いた。
まあ、帰って驚いたんですね、椛目の親先生、親先生と皆がいうが、もうほんなことて、( ? )、まあ、ちょっとここを前を通る時に、ちょっとよったと言う事はあったけど、それは、もう、( ? )、で初めてここにきてから会ってお話を頂くのは初めてである。まあ、親先生、親先生と( ? )思うておって帰ってから、もうとにかく驚いたと言う事はです、ずうっと夫婦で話してきたつがそのまま御理解であった、愕いてしもうたねって、結局その、まあ、そういう話からその晩はちょうど2時、まあ、3時近くまで親子5人で信心の話をしたと、その時に、まあ、敬造(けいぞう?)さんがお母さんに言われることはです、ね、あなた方は、あの、合楽の親先生と繋がってさえありゃお母さん方は幸せよと、ね、けれども、決しておかげで繋がんなさるな、おかげで繋がった貴方の信心は邪教になるよと言うて下さった。
私は素晴らしいことだと思いますね、もし皆さんが合楽の信心、なるほどおかげを頂いた信心を頂くのでございますけれども、それはおかげでなしに、繋がっておるとするら、もうそれは邪教だといわれても、それは確かに仕方がないです。( ? )信心をしておっても、やっぱりおかげで繋がっておるから、おかげを受け、おかげと思う有り難い、おかげと思わなかったら神様を軽視するということになってくるのじゃないだろうか、( ? )じゃなかろうか、ね、もう、私はお母さんが信心する、兄さん達が一生懸命信心をするから、ね、( ? )、まあ、いわゆる、学者ですから、まあ、勉強した訳です、そして、もう、私共が知らない事、なるほどそこん所を( ? )そういうふうに説明をされるという事を、もう、懇々として、その、いうならば、これが真の信心だと言う信心を説かれた、ね、(啓造けいぞう?)さんが、ね、ところがそこに、いわゆる、疑問が出来た、神様というものは( ? )、神様はその人の心から生まれるものである。神様はその人の心から生みなされる、言うならば、椛目の親先生が生みなしておられる神様は素晴らしいと言う事が分かった、だから、その、神様と、その親先生の信心とお母さん繋がる事であったら、お母さんはきっと必ず幸せにあるだろうと、それでも、お母さんがもし、ね、おかげご利益と繋がったならば、もう、私はお母さんの信心を、を軽蔑する、いや、お母さんの信心は邪教だと私は言う、( ? )、いよいよ分からなくなって来た、ね、神様、親先生が現しんなさった神様( ? )、ところが、いつもお話を頂くのに、神様の実在を、ね、天地の親神様のお働きを頂いておられるお母さんにしては、そこん所が段々分からなくなって来た訳です。恭造さんも質問がでてない、恵美子さんもそこん所が何とはなしにモヤモヤして分からない、本当に親先生にここじっくりそこん所を、まあ、( ? )云うので、参りましたら、そして皆さん、そういう勇気ですね、本当の神様を頂かせてもらうためには、そのぐらいな熱意はどうでも必要だと思う。おかげさえ頂きゃもう( ? )、おかげさえ頂きゃ、もう、それこそ、朝晩、朝昼晩でも参る、ね、そりゃ親先生じゃろうが、大先生じゃろうがかまわん、こういう、いわば、無絶そうな信心が私は本当にそれはやって頂く、金光教の信心といいや、念を打っておりましてもです、それは低級だ、邪教だといわれても、なるほど、仕方があるまいと私は思うでございます。ね。
教祖の御教えの中に、わが心に神がござるから一心を立てれるがおかげになる、一心を立てればわが心に神がござるからおかげと言うのはおかげ、そういう神です。
神はわが本体の親、信心は親に孝行するも同じ事という、ここに少し(潤滑じゅんかつ?)としてきた神様を、神様、( ? )見ておられる、ね、信心は親に孝行するも同じ事である、神はわが親の本体である、ここになってまいりますと、もう、神は、もう、わが心に神がござるから一心を立てねばということ少し変わってくる、そうですね。
神にあいたいと思うなら庭の口に出てみよう、空が神、下が神と申す、ここになってくると、いよいよ、その神様は偉大な神様になってくる、神にあいたいと思えば庭の口に出てみよう、空が神、下が神なのである。
私が説く所の神、私が現しておる所の神、または、私が、これは私と通うておる神様、交流しておられる神様、ね、それは、もう人間の( ? )以上の行をもって交流しておる神様、ところがこの神様は説明する事が出来んのです、ね、ちょうど、( ? )啓造さんがです、学者ですから、そこん所をいろいろ究明されたら、とにかく椛目でおかげを受けておる、合楽でおかげを受けておるというのは大坪総一郎、その人が現したその神様働きによって皆が助かっておるんだと、だから、その神様と繋がらなければいけないのだと、それなのに皆がおかげで繋がったり、他に人格化したというか、他に神様ござるといったような考え方が間違いだと言うのは、ね、ただ、勉強の上から、色々上からいうたらそう言うふうになってくるのである、それから先は一歩ここに踏み入り込んできて、本当の神様を拝んでみて、初めて分かる事であって、ここは説明が出来ない、だから、教祖は、そういうふうに、神、わが心が神にござるからおかげになるのじゃと、神はわが本体、親の信心は親に孝行するも同じ事ぞやというて、( ? )は親に孝行するような心持でこの神様に信心させて頂きよるところからです、いよいよ、ここに親神様の実在と言うか、それを感じてくれるようになる、それを、親神様のご招待が、を見てみたら、空が神下神であるというようなことになってくる、以上、それ以上説明することができない。 これは、私たち、皆さんまず、ね、信心をなさって、本当に後で御祈念をなさる、親( ? )神は拝んでおれるわけじゃないけれども、そこに( ? )神様を拝んでおるけれども、その神様と交流してくる、まあ、それを、極端に分かりやすく言うと、あの、おいさみがありました、お知らせを頂いたんです、これはもう、自分の心の中じゃないのである。ここになってくると、いわゆる、学者じゃ分からんのです、私はその事をどう説明しようかと思うたんです、そしたら、あの、( ? )の中で一人の男の人が、何と言うんですかね、一人、まあ、休んでおるという訳でしょうか、ね、これでですね、十年たったって、五十年たったって子供は生まれんと言う事です、女の子が一人そこん中に入ってただけで、ちゃーんと寝て触ればです、このまま( ? )と言うことです。男があり、女があり、そこに交流があって、初めてそこから新しい命が生まれてくるのである。ね。
だからです、ここに生みなされてくる訳です、ね、いわゆる、神さまとの交流が始まったくるのである、ね、その交流の中からです生まれてくるところの新しい命と言うか、新しい、いわば、今までかつて感じた事のない、いわゆる、おかげが生まれてくる、これはです、そこん所を通うた者でなかなければ分からないのであり、そこは説明する訳にはいかんのである、ね。
夫婦なら夫婦の生活といったようなものをです、人の前で現した、それを人に話したりすることが出来ないようにです、これは、どこまでも夫婦二人の者である、ここはどこまでも天地の親神様と私だけのものである、人にはいわれんのである、もう評判は出来ないのである、ね、( ? )、神様と二人の者である、声かけ、いわば、(高芝英昭たかしばひであき?)と言う人が、その、(高芝英昭たかしばひであき?)と天地の親神様二人の事である、その、感じられるところの度合いと言うか、程度と言うか、その、いわば、神様と、いうなら、(高芝英昭たかしばひであき?)のこういうものだから、これは人に、とにかく、とにかく、有り難いことじゃな、とにかく有り難いというより他にいいようがなかですが、ね、いわゆる、ちょうどこの人に話す訳にもいけない、それは人に見せる訳にもいけない、これは、本当に私と神様だけのものであるという、ここは信心させて頂いてお取次を頂いて信心の稽古をさせて頂いた者でなかなければ分からないのである、だから、ここは、まあ、いうならば、道そうである。
椛目のおばあさんがそれは本当に、こういう実在をどういう風にして、親先生に説明してくださるだろうか、( ? )説明して頂きたいというても、私は説明( ? )できないのである、そこは、だから、あなたが感じておられるでしょう、( ? )神様はござる、ね、ただ神様を感じておる、これが神様なのだ、説明はできない、だから、おそらく(啓造けいぞう?)さんには言うても聞かせても分からないということである、はぁー、そういうようなずうっと、そういうふうにして説明してくださった、いよいよ、私の心の中の神様がはっきりしてきて、これは(啓造けいぞう?)に分からせる必要はないのである、(啓造けいぞう?)はただ、親先生ならば、ね、誰でもついて行けれるのだろう、お母さんも一緒、親先生のお話でもしてくださるのなら、私も親先生の言われたあの言葉は忘れられない、おそらく、( ? )一生忘れんであろうと言うておるから、その内になる、お取次を頂かせて頂くような機会チャンスがあるだろう、そして、初めて分かる神の実在のである。ね。
神様はござるだろう、( ? )、いうたら、もう、どこまでたってもみつかっとらんです、なぜって、ここでこうして表して見せる事が出来ない、見せることが出来ないほどに実をいうたら、いわば、大切なものなのである、それは、夫婦の、その、関係と同じ事なのだからである、ね。
私はずうっとご神前に出てから、なら1時間なら1時間、神様と交流しておる、これは誰とでもおかすことは出来ない、おかならない、ね、誰でもおいてでも、これは、( ? )そんな事なんか問題じゃない、そこん所を一たび信心に向こうた、後ろから槍でつつかれるような事があっても、大きな( ? )を付く様なことでは神に一心は届かんと仰る、ね、それこそ、( ? )、ね、そう言う神さまをです、私共この体で、心で頂きながら、ね、これは、もう限りがない、同時に、これは二代様、四神様が仰っておられるように、氏子おかげは神からあげると思うな、思う、ね、おかげは神からあげるとは思えない、氏子の心からおかげは出るじゃと仰っておられます。
ここになってくると共に、わが心の神と言うものが一心を出して、本気で改まる事に磨く事に精進させて頂いて、御教えを行事させて頂く所から、私の心の神がいよいよ表されると言う事になってくる、ね。ちょうど、( ? )、合楽の神さまは大坪総一郎その人が表しておられる、心の中からあらわしておられる神様なんだと、そげなん答え、ね、一心を立てれるわが心に神がござる、必ず( ? )、そこには磨かなければ、改まらなければこれは神の成長もないのである、ね、その神様とこの神様、ね、( ? )の出来ない神様とが交流が始まる、それを私は信心だ、それを信仰だと私は思う。ね。
修養とか道徳とかとこういうのはです、ただ、わが心の神が表れておるだけである、いわゆる、神との交流がないところに( ? )、おかげというものは生まれてこないでしょう、ね、そしてなら、良いおかげが生まれてくる事をおかげ、おかげ、ご利益ご利益と云うのは邪教だ、低級だと学者は言うけれども、交流した事のある者じゃないと分からない世界であって、ただし、それがただおかげで、自分の心の神が育たずにです、ね、そのおかげだけのご利益の世界だけでつながっとるとするならば、(啓造けいぞう?)さんがいわれたように、お母さん、もし、あんたがかりにお参りするとおかげだけに繋がってお参りしよるとならば、あんたの信心は低級だ、あんたの信心はじゃ邪教と云うて、私はあんたのお母さんの信心を軽蔑するとこう云われる、そげんなんところに堕落してくる、同じお膝で御神縁を頂いておってもです、ですから違うことが分かりますね、( ? )、その方のおかげの表し方、神様のおかげの表し方によって本当なものか本当でないものかと云う事が分かってくる、お互いがどうあっても一つ真の道を行事、真の信心を、いわゆる、真の神様を現して行くということのおかげを頂かなければならんのです。
今日の御理解は、いわば、本当を言うたら結論を出せない御理解なんですね、いわゆる、神さまをせついする事が出来ないのですから、ね、ですから、皆さんの心がいよいよ磨かれ、その磨かれた心を持って神様と交流が始まる、これは神さまと皆さんだけが表して行けれる所のおかげ、そういう所まで、お互いの信心が、こう、成長していかなければ、してもそれは限りがない、厚い寒い、そして涼しいとか暖かいとかというけれども、それはいつのまにかそう変わっていく、けれども、それがただ同じところに、ね、どうでも小学校の一年生であってはならないということ、同じ一年生では、もう中学校の一年生、いや、高校の一年生のようにお互いの信心が育っていかなければ行けない、この、佐田一家の事を思うときにです、ほぉー、段々おかげを頂いていかれよるなぁーと、本当に、( ? )、神様が的確なものになって行きよるなあと、心も育っていきよるなあと、そして、分かっていかれるよるなあと、だからこそ、大神宮様を拝まい、荒神様もうここに親先生に、いわば、合楽に納めて、中止させて頂きたいという所まで信心が進んできておると言うことになるのでございます。ね。
どうでもお互いの信心を反省させて頂いて、ね、果たしてどう云う、もう、その、経路と言うか、どう言う道を辿って自分の信心が成長していってるのであろうか、はぁー自分の信心が何年しよるばってん、ほんとおかげだけでしかつながっておらんと言うとったら、もうここんところ・・・。
(途中切れ・・・。)
末永静行
2006年2月16日